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なぜ学ぶのか?

なぜ学ぶのか?
12:05

学ぶ理由

学校で、家で、皆こう思ったことはないだろうか?

「なんで勉強しなきゃいけないの?」

「勉強してなんの役に立つの?」

筆者自身も考えたことがある。高校卒業後、浪人を決意し有名大学を志し躍起になっていた。当時は「どうすれば有名大学に受かるのか」ばかり考えていた。一年、二年が経ち「受験で求められることは何なのか」を考えるようになった。そしてふと考えた。「勉強は将来どう役に立つのだろうか」と。大学に入り、様々なことを学んできた。答えは必ずしも一つではないが、そのうちの一つとしてこう考えられている。

「自由になるため」に勉強する。

学ぶ者の1人として、この意味をこれから説明して行きたい。気になる方はぜひ読み進めていってほしい。

 

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「自由」の諸技術、リベラルアーツ

「リベラルアーツ(Liberal Arts)」という言葉は聞いたことがあるだろうか。これは日本語で「教養」と言われるもので、大学で一年生の必修授業として「教養課程」と言うものがあったり、学部として「国際教養学部」や「リベラルアーツ学部」というものもある。

「リベラルアーツ」の由来は古代ギリシャ時代にまで遡る。古代ギリシャでは「自由人(自由民)」と「奴隷(非自由民)」という区分けがあり、自由人が市民生活で活躍するために重要な学問として7つの学問が学ばれていた。

*簡単に言ってしまえば上流階級の人々が受けるような “高級な” 教育であった

文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽の7科目があり、これらは「自由七科 (septem artes liberales)」と呼ばれた。その上位に哲学、そのまた上に神学があり「人」「世界」とは何かを探求したのである。これがリベラルアーツの起源である。

自由七科
円状に7科(文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文学、音楽)があって、その真ん中に「哲学」と「神学」が描かれている。当時の人々は“真理”をこのように捉えていたのであろう。

私たちを縛っているもの

さて、リベラルアーツとは何かについて話してきたが本題はここからだ。

自由になるために学ぶとは?

私たちはあるものに縛られているということができる。

それは「言説」あるいは「常識」である。つまり「当たり前」だと思っていることであり、それは人が言っていたこと、書いてあったこと、学んだことでもある。

「地球は平面である」と思われていた時代があったし、「宇宙の中心は地球である」と思われている時代もあったが今ではそのように思われていないであろう。

日本史においても、鎌倉幕府ができたのは1192年(いい国作ろう鎌倉幕府)と筆者は学んでいたが今では違う。日本最古の貨幣も今や「和同開珎」ではない。

今、西洋理論に基づいてきた科学が東洋思想に邂逅しようとしている(量子力学と仏教)なんて昔の人々はゆめにも思わなかったであろう。

つまり、常識は変化するのである。

私たちは言われていること、書かれていることに振り回されている。既成概念にとらわれているのだ。

目の前にある物事や出来事を見たときに私たちは既成概念(知っていること)に基づいて理解しようとする。つまり、起きたこと・未知のものに対して「見たいように見て、聞きたいように聞いてしまう」危険性をはらんでいるのである。

既成概念と私たち(図)

「天才」と言われた理論物理学者アインシュタインはこう言っている。

アインシュタイン

Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.

「常識」は18歳までに習得する偏見のコレクションである

ここでこう思ったはずである。

「じゃあ学ぶ必要ないじゃん」

しかしそれは違う。なぜなら既成概念から解放されるにはその「既成概念」を知らなくてはならないからだ。部屋から出るには「部屋」を知っていなければ出れないし、知らなければそもそも出たかどうか分からない。

様々な分野の学問を学ぶことで様々な「視点」を持てるようになり、物事の見方が多様になる。そうしていくことで「こういうものだ」と決めつけず、ふと立ち止まるようになる。

こうして、「既成概念の中で私たちはものごとを見ている」と外から見ることができるようになる。「当たり前」に対して疑問を持てる、「日常」から問いを見つけ出すことができる。それこそが「自由(Liberal)」であると考えられるのである。

既成概念を客観視する(図)

 

私たちを縛っているもの

さて、リベラルアーツとは何か、定義について話してきたが本題はここからだ。

自由になるために学ぶとは?

私たちは「あるものに縛られている」ともいえる存在だ。

縛っているもの。それは「言説」あるいは「常識」である。つまり「当たり前」だと思っていることであり、それは人が言っていたこと、書いてあったこと、学んだことでもある。

昔は「地球は平面である」と思われていた時代があったし、「宇宙の中心は地球である」と思われている時代もあったが、もう2000年になって大分たつ今ではそのように思われていないであろう。

日本史においても、鎌倉幕府ができたのは1192年(いい国作ろう鎌倉幕府)と筆者は学んでいたが今では違う。日本最古の貨幣も今や「和同開珎」ではない。

今、西洋理論に基づいてきた科学が東洋思想に邂逅しようとしている(量子力学と仏教)なんて昔の人々はゆめにも思わなかったであろう。

つまり、常識は変化するのである。

なぜ学ぶのかについての芥川龍之介の言葉

海外、それも西洋とその文明の起源である古代ギリシアについてだけ語っていたら、教養とは、学ぶ/学びとは、とても鼻持ちならない気取り屋の学問に思えるかもしれない。しかし、日本にも学びについて素晴らしい言葉を残している人がいる。芥川龍之介だ。

かれは、(正確な言葉ではないが)このようなことをいっている。

私たちはなぜ学ぶのか。それは他者への想像力を養うためである。科学を知り、人の心を知り、そして世界を知ることで、他人とのつながりが生まれる。路傍に花が咲いているとき、その仕組みを知ることで、他者への想像力を養うことができる。だから若者よ、勉強しなければならない。

自由であることは、責任を伴う。その責任は、他者への想像力・思いやりでより強いものとなる。

自由とは?学問の果て、学ぶことの果ての自由

古代ギリシアに話を戻そう。

実は、奴隷民と非奴隷民がいると書いたが、確かに彼らには貴族趣味があった。奴隷に身の回りの世話をさせ、その上で優雅な詩作や演劇を楽しんでいたと思われがちだ。しかし、奴隷といっても、現代の私たちが考えるような“奴隷”ではなかった。彼らはお金を貯めて、市場から自分の身の上を買い戻すことができたのだ。つまり、市場(マーケット)とは、自由を買い戻すことができる場所なのであった。

歴史上、もっとも有名な奴隷はイソップ童話を書いたアイソポス(イソップ)であろう。アイソポスもまた、遠くから売られてきた身の上でありながら、優れた寓話を残し、その詩作への謝礼でその身を買い戻し、自由を得たという。つまり解放奴隷だったのだ。

ソクラテスとプラトンにみる、哲学することの大切さ

また、奴隷とは少し異なるが、貴族趣味があった古代ギリシアの世界では、下層階級とみなされる人もいた。現代の価値観では信じられないことだが、石工と産婆などがそうである。その石工と産婆の息子こそ、ソクラテスであった。

ソクラテスもまた、非常に口がうまかったとされている。そしてその跡目を継いだのがプラトンであることを知らない人はいないだろう。実は、プラトンは子供の頃、悲劇作家として身を立てようとしていたことはあまり知られていない。悲劇作家になることは、先ほどのポイエテスの話にあるとおり、古代ギリシアの世界では地位の高い人たちの営みだと思われていた。

しかし、プラトンは青年期にソクラテスと出会い衝撃を受けて、それまで書いていた悲劇の草稿を破り捨て、燃やしたというエピソードが残っている。悲劇作家としての名誉よりも、上流階級趣味(プラトンはたいへんな名門貴族の出身だった)よりも、上位とされるもの。大変な憧れ。それが、「哲学」だったのである。

ただし、哲学といっても、現代のように難解な用語を使って抽象概念をこねくりまわすのではなく、古代ギリシアではもっともっと哲学は生活とともにあった。

古代における神学とはなんだったのか

では、もうひとつ、哲学と同じぐらい大切で、同じぐらい尊敬を集めていた学び。古代の神学とはなんだったのか。ギリシア神話というものを聞いたことがあるだろう。2300年前の彼らは歴史を持たなかったので、歴史から学ぶことができない。よって、その代わり教訓を与えてくれていたのがオリンポスの神々である。それがギリシア神話だ。

そのギリシア神話をもっとも正確に人々へ伝えていたのが、詩人のホメロスとヘシオドスである。もしかしたら哲学の教科書で習ったことがある名前かもしれない。そのホメロスとヘシオドスは、ただロマンティックで魅力的なヒーローと神々を歌い上げていたわけではない。

ご存じの通り、現代にも伝わるギリシア神話に出てくる神々は、むちゃくちゃである。暴力、裏切り、不倫・・・。神々の気まぐれ、尊大、結果についての無責任。つまり、ギリシア神話は権力の正体を暴き立てていたのである。そこから人間は解放されなければならない。怒りと労働によって、残忍な権力の不当な支配から自由になる。それが、『オデュッセイア』のアキレウスの怒りと、『仕事と日々』の労働への賛美だったのだ。

まとめ

実際のリベラルアーツの歴史として、「自由七科(リベラルアーツ)を学ぶことによって人々は自由を求めてきた」といった崇高なストーリーではなかったかもしれない。しかし、「学ぶことで自由になれる」ということは間違っていないはずである。

知識がたくさんあるかないかということより(もちろん知識は必要であるが)、「当たり前」に対して客観視できるか、あるいは疑問をもてるかということである。そして物事に対する多角的な視点を持っているかどうかである。

稚拙な文章であったが、「自由になるために学ぶ」ということの意味を「リベラルアーツ」という視点から簡単ではあるが説明してきた。

これもまた「一つの視点」として受け取ってもらえたら幸いである。